30秒でわかる概要: 呉大猷(1907–2000)は理論物理学者です。1946年に自ら楊振寧と李政道をアメリカ留学へ送り出し、二人は11年後にそろってノーベル物理学賞を受賞しました。1983年からは11年間にわたり中央研究院院長を務め、台湾が経済成長を急ぐ時代にあっても基礎科学の重要性を守り抜き、台湾の研究体制の土台を築きました。
1957年10月、ノーベル委員会はその年の物理学賞を楊振寧と李政道に授与すると発表しました。台北でその知らせを読んだ呉大猷の表情は、驚きというより、むしろ確信に近いものだったといいます。彼は、この二人にその力があることを、ずっと前から知っていたのでしょう。11年前、彼は自分の手でその道へ送り出していたのです[^1]。
分子物理学者としての基盤
呉大猷は1907年、広東省高要に生まれ、幼少期に家族とともに天津へ移りました。南開中学で中等教育を終えたのち、1929年に燕京大学物理学科を卒業し、渡米してミシガン大学へ進学します。1933年には原子・分子理論の研究で博士号を取得しました[^2]。
彼の主要な学術的貢献は、分子分光学(molecular spectroscopy)と量子力学の理論研究にあります。水素分子イオンの量子構造、多原子分子の振動・回転スペクトルの計算――こうしたテーマは、1930〜40年代には物理学の最前線に属する問題でした。新聞の一面を飾るような研究ではなかったかもしれませんが、このような粘り強い理論研究があったからこそ、その後の物理学はより複雑な分子系を扱えるようになっていきました。
呉大猷の学風は、いわば「大きな一発」ではなく、後進が立てる土台を丁寧に築くタイプだったと言えるでしょう。成果を急ぎがちな時代には見えにくい価値かもしれませんが、彼が育てた人材の顔ぶれそのものが、その意義を物語っています。
1934年から1946年まで、呉大猷はミシガン大学で教鞭を執り、研究と教育を並行して続けました。この時期に、厳密さを重んじながらも、学生の直感を押さえつけない教育姿勢が形づくられていきます。
あの推薦状
1946年、呉大猷は中国政府からアメリカ留学のための枠を託されます。そして彼は、楊振寧と李政道という二人の学生を選び、アメリカでさらに学ぶよう推薦しました。楊振寧はシカゴ大学でエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)のもとで研究し、李政道も同じ大学に進み、のちに理論物理の道へ進みました[^3]。
楊振寧はのちに、「呉先生が教えてくれたのは問題の解き方ではなく、解く価値のある問題をどう見つけるかだった」と振り返っています。李政道もまた、呉大猷は何を研究すべきかを押しつけることはなく、その問題が本当に重要かどうかを見極める力を教えてくれたと語っています[^4]。
「科学の価値は答えにあるのではない。問い方にある。」——呉大猷
1957年、楊振寧と李政道は、パリティ非保存(parity violation)に関する理論研究によってノーベル物理学賞を共同受賞しました。これは華人科学者として初のノーベル科学賞受賞でもありました[^5]。呉大猷がその知らせに接して見せた「あの確認するような表情」は、結果に驚かなかったからではありません。彼が教えてきた思考法――誰もが当然と思っている前提に対して、「本当にそうなのか」と問い返す態度――が、まさにそこに実を結んだからです。
パリティ非保存の核心は、物理学界が長く「自明」とみなしてきた対称性そのものを疑うことにありました。二人の若い物理学者は、師から学んだ方法によって、一つの「法則」を問い直したのです。呉大猷が確信していたのは、結果そのものではなく、その方法でした。
中央研究院での11年
1983年、呉大猷は76歳で中央研究院院長に就任しました。中央研究院は台湾を代表する学術研究機関であり、そのトップを引き受けるのは決して容易な役目ではありませんでした。在任期間(1983–1994)、彼は基礎研究の代替不可能な価値を一貫して強調し、中央研究院が単に応用需要に奉仕する機関になることを許しませんでした。また、より厳格な研究評価制度を進め、海外の研究者人材を台湾へ呼び戻すことにも力を注ぎました[^6]。
彼はよく、「基礎科学なくして、本当の応用科学はない」と語ったとされます。1980年代の台湾は、半導体産業や情報産業の発展を急いでいた時代でした。その空気のなかで基礎科学の重要性を言い続けるには、相応の信念が必要だったはずです。さらに彼は、科学を研究所の内部だけに閉じ込めず、社会へ開いていくことも重視しました。中央研究院による科学講演会やサマーキャンプを推進したのも、その一環です。
こうした改革は、すぐに目に見える成果を生んだわけではありません。しかし、台湾の研究力がその後蓄積していくうえで、制度的な下地を整えたことは確かです。のちに李遠哲が院長を引き継ぎ(1994–2006)、中央研究院の国際化をさらに進めることができたのも、呉大猷が築いた基盤の上に立っていたからだと言えるでしょう。
少し居心地の悪い肩書き
呉大猷はしばしば「中国物理学の父」と呼ばれます。しかし、その肩書きを彼の人生全体に重ねると、少し複雑です。晩年の重要な仕事の多くは台湾で行われており、むしろ「台湾の科学発展を支えた礎の一人」と表現したほうが、実態に近いのではないでしょうか。
ミシガン大学での研究生活、楊振寧と李政道の育成、そして中央研究院での11年間。これらを合わせて見ると、呉大猷の仕事は、中国大陸・アメリカ・台湾をまたぐ科学の継承の流れの中に位置づけられます。彼の業績は、どこか一つの場所だけに帰属するものではありません。ただ、最後に深く根を下ろした場所が台湾だったことは、やはり重要です。
2000年1月、呉大猷はサンフランシスコで93歳の生涯を閉じました[^7]。楊振寧は追悼文の中で、「呉先生の重要性は、標準的な学術評価では測りにくい。彼が人に教えたのは物理だけでなく、本当の科学者として生きるとはどういうことかだった」と記しています。こうした影響は、たしかに引用数や論文本数のような指標には収まりきらないものです。
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- 李遠哲 — 台湾で成長し、のちにノーベル化学賞を受賞した科学者。台湾における基礎科学の継続的な蓄積を象徴する存在です
- 半導體產業 — 呉大猷が中央研究院院長を務めた1980年代は、台湾の半導体産業が本格的に飛躍した時期でもありました
- 唐鳳 — 科学からテクノロジーへ。台湾の知的エリートが公共領域に関わる、もう一つのあり方を示す人物です
参考資料
[^1]: 吳大猷 — 維基百科(繁體中文) — 生涯、学術的貢献、台湾での活動、楊振寧・李政道との関係をまとめた、もっとも包括的な中国語資料の一つ。
[^2]: 分子光譜學 — Encyclopedia Britannica — 分子分光学の学術的背景と、1930〜40年代における研究上の位置づけを理解するための参考資料。
[^3]: 楊振寧 — 諾貝爾官方傳記 — 楊振寧の公式伝記。中国での学びと渡米の経緯、呉大猷の推薦の背景を知る手がかりになります。
[^4]: 李政道 — 諾貝爾官方傳記 — 李政道の公式伝記。重慶・昆明での学びと、呉大猷の紹介を通じてシカゴ大学へ進んだ過程が記されています。
[^5]: 1957 年諾貝爾物理學獎說明 — 諾貝爾官方網站 — 楊振寧・李政道がパリティ非保存の研究によって受賞したことを示す公式記録。
[^6]: 中央研究院歷任院長 — 中研院官方網站 — 呉大猷が1983年から1994年まで第5代院長を務めたことを確認できる中央研究院の公式資料。
[^7]: 吳大猷生平 — 國立自然科學博物館科學人物誌 — 呉大猷の生涯と、台湾科学史における位置づけを整理した資料。