30秒概要: 連江県は中華民国が現在管轄する「福建省」二県のうちの一つで、4郷5主要島に36の付属島を加え、総面積は28.8平方キロメートルである。南竿から福州市街までは約50キロ、大陸に最も近い北茭半島までは9.25キロしかないが、台北までは200キロ以上ある。1949年に国共内戦が終結すると、「連江県」は二つに分かれた。県治が共産党軍側に残った福建連江と、中華民国側の県政府が撤退した南竿である。1956年から戦地政務体制に入り36年間続き、夜9時の宵禁、二階建てを超える建築の禁止、馬祖の人が台湾へ渡るための入出境許可証といった統制が敷かれた。1992年11月7日、金門・馬祖の戦地政務が終結した。2012年、馬祖の住民投票でカジノ特区の設置が可決され、台湾史上初めて可決された地方性住民投票となったが、それから13年が経ってもカジノは建設されていない。現在13,646人がここに暮らし、馬祖語は桃園八徳の第三世代で94%失われた。
南竿の山頂から北を望むと、福州の街は16キロ先
南竿郷介寿村の山稜に立って北を眺めると、天気の良い日には福州市街の輪郭が水平線に浮かび上がる。
南竿から大陸で最も近い海岸線(北茭半島)までは、直線距離でわずか9.25キロしかない。さらに内陸の福州市街までは、およそ50キロである1。振り返って南の台湾本島を見ると、台北までは直線距離で200キロを超え、台馬輪は基隆港から南竿の福澳港まで8時間から10時間揺られて進む。
連江県の地理的事実はこうだ。大陸の福州のほうが、自国の首都よりも、およそ13倍近い。

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しかし、この県の名前は「連江」である。中華人民共和国の福建省にも「連江県」があり、県治は福州下流の鳳城鎮に置かれ、1949年の国共内戦最後の夏に共産党軍に接収された。中華民国の連江県政府はそのとき馬祖列島へ撤退し、1953年8月に南竿で県政府を再設置した2。一つの県が二つに分かれ、一方は中国共産党側に残り、もう一方は台湾の県になった。これは台湾全22県市のなかで唯一の例である。
連江県は台湾省には属していない。金門県とともに「福建省」に属している。この省は今なお中華民国の憲政構造における二省の一つだが、1998年以降省政府はすでに虚級化され、2019年には福建省政府が正式に業務を停止し、業務は行政院金馬聯合服務中心に引き継がれた3。それでも身分証上、戸政システム上、地図の表示上、連江の人びとは今も「福建省連江県」の人である。
この県を理解するには、まず「島は必ず最も近い国に属する」という直感を手放さなければならない。連江は台湾の県だが、地理としては一度も台湾であったことがない。
亮島人は7,900歳、孔子より数千年古い
2012年、国軍が東引郷北方の亮島で工事をしていた際、完全な人骨2体を掘り出した。
考古学者・陳仲玉のチームはこれを「亮島人1号」「亮島人2号」と名づけた。ミトコンドリアDNAの比較により、亮島人1号は台湾のタイヤル族、アミ族と共通する母系の血縁を持つことが示され、南島語族の最も早い祖先の一人であった可能性がある4。
亮島島尾考古遺跡の炭素14年代測定では、今から7,000年から8,300年前という結果が出ている。2023年、文化部はこれを台湾で11番目の国定考古遺跡に指定した。これは現在台湾域内で発見されている最古の新石器時代遺跡でもある5。
亮島そのものが軍事上の要地であり、民間人は上陸できない。考古計画は国軍と開放の窓口を協議しなければならず、発掘期間中は軍人がそばで警戒にあたった。7,900年前の人骨が、冷戦期の軍事禁区によって70年以上も守られてきた。この対比そのものが、連江県の歴史の圧縮である。
宋代、梁克家の『三山志』にはすでに「竿塘」(馬祖列島の旧称)の記載がある。南竿鉄板村の大清宮の石碑には「中統交鈔貳拾貫」と刻まれており、中統鈔は元代の貨幣であることから、元代の南竿にすでに集落があったことがわかる6。閩東の漁民は出身地に応じてそれぞれ異なる島に住み着いた。東莒・西莒はもともと長楽県に属し、東引・西引はもともと羅源県に属していた7。福建の漁民はこの島々にすでに千年以上暮らしており、彼らは「発見」されてやって来た人びとではない。
📝 キュレーター・ノート: 主流の離島叙事は「戦地観光」「藍眼涙」「補給艦」である。このframeは馬祖を冷戦の産物へと圧縮し、まるで1949年に初めて存在し始めた島であるかのように見せる。亮島人考古の意義は、時間軸を引き延ばす点にある。この海域における人類活動はすでに8,000年に及び、国共内戦の75年はその最末端のごく短い一節にすぎない。閩東漁民の祖先の墓、媽祖伝説の石棺、宋元の銅銭は、いずれも冷戦に先立って存在した時間の層であり、冷戦史の注釈ではない。
1617年の41字の石刻
東莒島最南端、老頭山の斜面に、一つの摩崖石刻がある。
1617年(明・万暦45年)5月、将領の沈有容が閩海を守備し、東沙(現在の東莒島)で倭寇と激戦を交え、69名を生け捕りにして一兵一卒も失わなかった8。1630年(明・崇禎3年)、工部侍郎の董応挙がこの戦役を記念して石碑を刻んだ。碑文は41字である。
「萬曆彊梧大荒落地臘後挾日宣州沈君有容獲生倭六十九名於東沙之山不傷一卒閩人董應舉題此。」9
この「大埔石刻」は馬祖地域に現存する最古かつ最大の摩崖刻石であり、現在は連江県の県定古跡に指定されている。1953年、国軍が東莒に進駐して防御工事を築いていた際に発見され、当時は鉄条網で囲って保護された10。
沈有容という人物には、台湾史上もう一つの記録がある。1604年、彼は澎湖でオランダ東インド会社司令官ウェイブラント・ファン・ワルウェイク(韋麻郎)を説得して退去させた。これが「沈有容諭退紅毛番韋麻郎等」碑であり、現在は澎湖天后宮に残り、2022年に国宝級文物に指定された11。同じ明朝の将領が、13年のあいだに台湾海峡の北端と南端でそれぞれ一つずつ海上の武力衝突を鎮めた。一つは倭寇に対して、もう一つはオランダ人に対してである。
清仏戦争期(1884〜1885年)、フランス艦隊が台湾海峡を封鎖し基隆を攻撃した際、閩江河口沖に位置する馬祖列島もフランス軍の補給拠点となりうる場所だった。しかし結局この戦争が実際に馬祖まで及ぶことはなく、馬祖が近代戦争と直接接触するのはさらに70年待たねばならなかった。
清朝統治期(1683〜1895年)、連江県の管轄区域は福建省福州府に属し、馬祖列島は連江県が外海に管轄する島々だった。その200年余りのあいだ、馬祖は漁民が一時的に身を寄せる群島にすぎず、県治もなければ、大規模な開墾も、書院もなかった。それは中国の海洋辺境であり、1949年になって初めて、中華民国がこの辺境を自らの最前線に変えた。
午後9時を過ぎたら、島全体で身動きが禁じられた
1956年7月、馬祖戦地政務委員会が成立した。
その年から1992年11月7日の金門・馬祖戦地政務終結まで、連江県は丸36年におよぶ軍政一元化統治を経験した12。台湾本島は1987年に戒厳を解除したが、金門・馬祖はそれよりも4〜5年長く戒厳体制を維持してから終結を迎えた。
この36年間、現地住民の日常はどのようなものだったのか。
国家文化記憶庫の「宵禁時間,軍令如山」の項目には、いくつかの基本規則がverbatimで記録されている。「宵禁の時間は夜9時以降」。「宵禁時間中、島全体でいかなる活動も行ってはならない」。「軍人・民間人を問わず外出には合言葉を知っている必要があり、知らなければ捕らえられ、軽ければ拘禁、重ければ処罰された」。「重大な事故が起きてどうしても外出しなければならない場合は、関係機関に通行証を申請するか、宵禁の合言葉の内容を告げなければ通行できなかった」13。もっとも直截な一文はこう書かれている。「衛兵が異常を発見すれば『合言葉』を叫び、応答がなければ敵とみなし、ためらうことなく発砲する」13。
軍人はどれほど多かったのか。馬祖防衛司令部の最盛期の総兵力はおよそ5万人14、当時の住民人口はおよそ1万人で、軍民比は5対1だった。28.8平方キロメートルの群島に、5個師団分の兵力が駐屯していたことになる。
物質生活の統制も細部にわたった。ラジオやテレビは申請しなければ使用できず、冷蔵庫・洗濯機・電気釜・エアコンといった高消費電力の家電は金門・馬祖では禁止され、建築物は二階建てを超えてはならず、カメラは自由に使えず、タイヤ・浮き輪・バスケットボールといった「浮具」は、住民が対岸への逃亡に使うことを恐れて持ち込みが禁止され、爆竹を鳴らすこと、檳榔を噛むことも禁じられ、鳩を飼うこと、凧を揚げることもできなかった15。金門・馬祖地区は独自の軍票まで発行しており、台湾・澎湖との往来には通貨の両替が必要だった。
蔣介石は1958年に馬祖を視察した際、自ら「枕戈待旦」の四文字を書いた。矛を枕に夜明けを待つ、すなわち常に警戒を怠らず、眠るときすら気を緩めてはならないという意味である16。今日でも南竿郷介寿公園ではこの石刻を見ることができ、西莒埠頭には「毋忘在莒」の標語があり、村の壁には「確保馬祖」「光復大陸国土」「解救大陸同胞」といった軍政期のスローガンが今も散見される16。これらの標語は36年間の実際の統治が残した物理的痕跡であり、観光化のための装飾ではない。
1991年5月1日、動員戡乱時期臨時条項が廃止され、1992年11月7日、金門・馬祖地区は戦地政務の試行期間を正式に終え、両地区の戒厳令が解除された12。しかし戦地政務が終結してもなお、馬祖の人びとが台湾本島へ渡るにはさらに2年近く待たねばならなかった。台湾・澎湖・金門・馬祖間の出入境許可が法規上正式に廃止されたのは、1994年5月13日のことである。
馬祖の人が30年前に台湾へ渡るために使った「パスポート」
現職の連江県長・王忠銘は、2023年のインタビューで、色あせた一枚の文書を記者に見せた。
それは1992年に戦地政務が廃止される以前、馬祖の人びとが台湾本島との往来に使っていた「入出境許可証」だった。彼はこう語る。「あの入出境許可証は、パスポートのようなもので、当時は台湾へ行き来するたびに申請しなければなりませんでした」17。
台湾本島に入るには、馬祖の人はまず内政部境界管理局に申請しなければならなかった。申請書、写真、目的、帰還予定日など、すべての項目を細かく記入する必要があった。馬祖の人が台湾へ行くことと、外国人が台湾に入国することは、行政上まったく同じ扱いだった。中華民国のある県の住民が、自国の首都へ行くのにパスポートに類する証明書を必要とするというのは、世界の憲政史上でもそう多くはない事例だろう。
この「パスポート」は戦地政務が残した物質的遺産であり、ある種のアイデンティティの物理化でもある。あなたは中華民国連江県の人間でありながら、中華民国の他の地域には自由に入れない。1956年から1994年のあいだ、馬祖の人びとは実質的に中華民国内における「半分外国人」だった。
✦ 「もし台湾が私たちを要らないと言い、私たちも中国人にはなりたくないとしたら、どうすればいいのでしょうか」18
この言葉は、鳴人堂に掲載された馬祖の若者のアイデンティティに関する報道からの引用である。これは連江県が2026年に置かれている存在の苦境を的確に言い表している。行政上は台湾に属していながら、祖籍・言語・地理・信仰はいずれも福建に近い。民選の県長と投票権を持ちながら、その歴史は冷戦の最前線によってつくられてきた。
2012年のカジノ住民投票、13年経っても進展はない
戦地政務が終結したのち、馬祖の人びとは「自分たちのことは自分たちで決める」もう一つの方法を試みた。地方性の住民投票である。
2012年7月7日、連江県は「馬祖に国際観光リゾート区を設置しカジノを併設するか」を問う住民投票を実施した。登録有権者7,762人、投票率40.76%(投票者3,164人)、賛成1,795票(57.24%)、反対1,341票(42.76%)、454票差で可決された19。
これは台湾史上初めて可決された地方性住民投票であり、2004年の《住民投票法》施行後3回目の地方性住民投票だった。澎湖県では2009年と2016年の2度にわたるカジノ住民投票がいずれも反対多数で否決され(反対56.44%/反対60.1%)、金門でも2023年のカジノ住民投票が同様に高い反対票で否決された。全台湾で馬祖の人びとだけが「やってみよう」と言ったのである20。
理由は経済である。馬祖は航路の便が悪く、観光の閑散期が長く、若者は進学や就職のために台湾本島へ流出していた。当時の県政府は台湾懐徳開発公司と提携し、北竿に国際観光リゾート区を建設し、カジノ、五つ星ホテル、会議センターを併設する計画を立てた。大陸にも日韓にも十分近い東北アジアのカジノ拠点として位置づける構想だった。
住民投票は可決された。だが、その先はなかった。
地方住民投票が通過するのは第一関門にすぎない。実際にカジノを開業するには、《観光カジノ管理条例草案》が立法院を通過する必要がある。2013年12月、行政院は関連草案を審査したが、各方面の立場が対立して行き詰まり、採決されないまま散会した21。2015年、台湾懐徳公司は「カジノ特別法が未成立」を理由に、静かに馬祖でのカジノ開発から撤退した。2026年の今日に至るまで、13年が経ってもカジノは建設されず、カジノ特別法も成立していない。
連江県政府秘書長の張龍徳は2017年、こう語っている。「馬祖は近年、カジノという大きなパイにもはや頼らないし、頼る必要もない。自力で観光を発展させていくのだ」22。この言葉は吹っ切れたようにも聞こえるが、13年間中央に阻まれ続けてきたという事実は消えない。馬祖の人びとは民主的手続きを経て可決したにもかかわらず、中央の立法が追いつかず、地方の意志はそこで空転したままなのだ。
この事例は、台湾の憲政にとって意味のある観察点である。地方住民投票は民主主義だが、その民主主義の射程は中央の立法のところで断ち切られる。馬祖の人びとは36年かけて戦地から抜け出し、さらに13年をかけて、自分たちの決定がそれでもあの壁を越えられないことを思い知った。
同じ言語に三つの名前:閩東語、福州語、馬祖語
馬祖の人びとの母語は、台湾本島の台湾語、客家語、原住民族語とはまったく異なる。
それは閩東語であり、福州の街で話される福州語とは「大同小異」の関係にある23。馬祖の人びとの祖籍は多くが長楽県で、羅源県や福州の各県出身者もいるため、この言語は「長楽語」「福州語」「馬祖語」とも呼ばれる。いずれも同じ閩東語の異なる呼び名である。閩南語(台湾本島の台湾語)とはまったく意思疎通ができない。二つの体系は音韻、語彙、文法のいずれにおいても、千年以上前から分かれてきた。
2017年、中華民国政府は馬祖語を国家本土言語の一つとして正式に認定した24。2019年には《国家言語発展法》が成立し、馬祖語は法律による保護の対象となった。これにより台湾の母語ファミリーには「第四の言語」が加わった。閩南語、客家語、原住民族諸語に次ぐ、閩東語の一支である。
しかし言語の喪失は非常に深刻である。
Taiwan Insightに掲載された馬祖語を研究する英語記事は、率直にこう書いている。「Less than 30% of Matsu households currently speak in their mother tongue. Some elders believe that this is a dying language.」(現在、馬祖の家庭で母語を話しているのは3割に満たない。一部の高齢者は、これは消えゆく言語だと考えている。)同じ記事にはもう一節、こう記されている。「The ban on speaking in dialects was painful and hastened the crisis of language extinction.」(かつての方言禁止政策は痛みを伴うものであり、言語消滅の危機を早めた。)25
馬祖現地の言語状況は、台湾本島よりもはるかに深刻である。ウィキペディア馬祖語の項目にはverbatimでこうある。「近年、馬祖地区の観光開放と、多くの住民の台湾本島への移住にともない、馬祖の現地住民の少なからぬ数が閩南語である台湾語を話すようになった。母語である馬祖語は衰退の苦境に直面しており、若い世代はあまり話さない、あるいはまったく話せない。」26
さらに切迫した数字は桃園八徳から来ている。「馬祖語は直近の三世代のあいだに、94%という高い割合で失われており、『重大な危険』の段階にある。」17
桃園八徳は、馬祖出身者が台湾本島で最も多く集まって暮らす土地である。1960年代、70年代に漁獲量が枯渇し紡織業が台頭すると、大勢の馬祖出身者が桃園八徳の紡織工場へ働きに出た。今日、馬祖本島の常住人口はおよそ13,000人であるのに対し、桃園八徳に住む馬祖出身者の子孫はおよそ5万から6万人と推計され、台湾にいる馬祖からの移住者は島の人口の4倍から5倍にのぼる17。馬祖の人びとには、自らを語る言い方がある。「四郷五島プラス八徳」。
言語喪失の根源の一部は、36年におよぶ戦地政務にさかのぼる。1956年以降、国軍が進駐すると国語(標準中国語)の普及と識字運動が強力に推し進められた。その動機は「軍民協同、連動作戦」にあった。馬祖防衛司令部は各村に「指導員」を配置し、大人には国語を、子供には読み書きを強制的に学ばせた27。国語の識字運動は公衆衛生の意味では成功だったが、馬祖語にとっては言語の地震だった。
📝 キュレーター・ノート: 一般に流通する科学解説の語り方は「馬祖語は福州語と同じ閩東語である」というものであり、言語学的には誤りではない。だがこの言い方は、馬祖語を「中国方言の島」という座標系のなかに置いてしまう。より正確な見方はこうだ。馬祖語は台湾の言語地図における閩東の座標であり、金門語(同じ閩南系だが訛りが異なる)、宜蘭頭城語、屏東満州語、澎湖白沙語などと並んで、台湾の母語多様性を構成する一部である。馬祖語が94%失われるとき、台湾が失っているのは自らが多言語社会であることを示す内部の一次元なのである。
観光化の前と後:媽祖、藍眼涙、芹壁の石造家屋
連江県の観光宣伝には、三つのanchorが最もよく登場する。媽祖、藍眼涙、芹壁である。それぞれに、もともとの物語と、観光化されたあとの物語がある。
媽祖の物語は、一つの伝説から始まる。宋代、林黙娘は海に身を投げて父と兄を救おうとして命を落とし、その遺体は海を漂って南竿島付近にたどり着いた。漁民がそれを引き上げ、その孝心に感じ入って海岸に葬った。
この物語の続きには、二つのバージョンがある。南竿郷公所の公式サイトによるバージョンはこうだ。「その後、湄州の郷里の人びとがこれを知り、海を渡って南竿へ媽祖の遺骸を迎え戻したが、衣冠塚だけを残した。」28 一方、馬祖境天后宮の伝説では、遺骸は今も南竿天后宮の正殿の地下にある霊穴に残っているとされる。1963年(民国52年)の出来事は、現地でとりわけ広く語り継がれている。「民国52年、国軍の工兵が不敬にも地面のタイルを墓石の上に勝手に敷いたところ、翌日、墓石の上のタイルだけが粉々に砕けており、その他の地面は元のままだった。」29 二つの伝説は並び立っており、どちらもどちらを説得できずにいる。
「媽祖島」という呼び名は、のちに口伝によって「馬祖島」へと変わり、連江県の「馬祖」という名はここに由来する。馬祖境天后宮(馬港天后宮)は南竿の馬港にあり、海に面して建ち、馬祖じゅうで最も香煙の盛んな信仰の中心地である。毎年旧暦9月9日の媽祖昇天祭は、北港媽祖や大甲媽祖の巡行祭典とは明確に異なる。馬祖の媽祖信仰の中心にあるのは墓穴(媽祖の生涯の終着点)であり、これは台湾本島の閩南人がもたらした分霊の香火にはない核である。
藍眼涙の物語は、科学的現象が観光の原動力へと変わった事例である。
藍眼涙の学名はNoctiluca scintillans(夜光虫、ヤコウチュウ)といい、渦鞭毛藻門の単細胞生物である。毎年、閩江の増水期に陸由来の無機栄養塩が海域に流れ込むと珪藻が大量に繁殖し、夜光虫はその珪藻を餌として爆発的に増殖する。波、船のオール、人間の足音などで刺激を受けると、夜光虫は青い生物発光を短時間放ち、一回の発光はおよそ80ミリ秒続く30。台湾海洋大学の研究によれば、水温が摂氏27度を下回ることが大量発生の鍵であり、発生の季節は通常4月から6月で、年によっては3月や9月まで及ぶこともある。
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2010年代にソーシャルメディアが台頭すると、「藍眼涙」は一夜にして爆発的な人気を得た。馬祖の年間観光客数はコロナ禍前の21万人(2019年)からコロナ禍後の22.4万人(2023年)まで伸び、藍眼涙は繁忙期最大の牽引力となっている31。北海坑道はもともと1968年に着工した「北海計画」によるゲリラ艇のための水中地下埠頭だったが、今日では観光客がボートで漕ぎ入り坑道内の青い光を見る、馬祖で最も代表的な観光体験となっている。1968年に国軍が掘削し高速艇を隠してゲリラ戦を行うための水中坑道が、2020年代には藍眼涙体験の最高の観覧地点になったのである。
しかし藍眼涙の大量発生の裏には、もう一つの物語がある。赤色のN. scintillansは赤潮と関連しており、水中の溶存酸素を消費し、漁業に破壊的な影響を及ぼす。科学者たちは、その発生の強まりが中国沿岸部の工業化や農業肥料による富栄養化と関係している可能性があると考えている。言い換えれば、馬祖の人びとが目にする藍眼涙は、対岸の汚染密度と比例している可能性があるのだ。
芹壁村の物語は、最もドラマチックである。
北竿の芹壁は、もともと一つの閩東石造集落だった。「亀を馬祖語で『芹囝』と発音し、山に沿い海に面して建てられた集落が山肌に嵌め込まれているさまから『芹壁』と呼ばれるようになった。」32 およそ200年余り前、福建長楽県の陳氏一族が海を渡って移り住み、「資源に乏しい島で、切り出しただけの花崗岩を建材とし、乱石積みで方形の独立した二階建てを築き、石塊で屋根瓦を押さえ、小さく高い窓で風と海賊を防いだ」33。屋根に石を載せるのは台風対策、窓が小さいのは海賊対策であり、物理的な環境がそのまま建築の語彙を決定した。戦後は男が漁に出て女が商店を営むようになり、暮らし向きが豊かになると、閩東建築を代表する工法である「人字積み」「工字積み」が発展した。
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そして1970年代、漁業の壊滅的打撃がやってきた。北竿の漁獲は枯渇し、住民の多くが生計を求めて台湾本島へ移った。「漁業が壊滅した70年代に台湾へ移住して生計を立て、次第に荒れ果てて廃れていく集落を後に残した」34。民国70年代末には、芹壁村全体で3世帯から4世帯しか残っていなかった。
民国89年(2000年)、県政府は「芹壁集落古民家修復工事」に着手し、民国90年(2001年)に完工した。「200年のあいだに、誕生、衰退、そして再生を経て、商店は観光案内所となり、住居はカフェや民宿になった。」35 今日の芹壁はInstagramの人気スポットであり、閩東の石造家屋のなかでコーヒーやお土産が売られている。かつて3世帯しか残っていなかった廃村に、今では年間数万人の観光客が押し寄せる。
✦ 「次第に荒れ果てて廃れていく集落を後に残した。」34
この一文を芹壁の修復前後で読み比べると、重く響く。観光化は石造家屋を救ったが、同時にそれを村人の家から観光客の背景へと変えてしまった。どちらの運命がより良いのか。誰にも芹壁の代わりに語る資格はない。
軍人が去ったあと:クロハシアジサシ、大坵島のニホンジカ、東莒島灯台
戦地政務が終わったあと、馬祖にはもう一つの変化があった。軍人が去った島に、自然が戻ってきたのである。
クロハシアジサシはそのなかでも最も劇的な例である。世界に残るのはおよそ200羽のみで、IUCNの絶滅危惧種分類では最も脅威度の高いCR(近絶滅種)に指定されている36。毎年およそ10〜20羽、すなわち世界個体群の5〜10%が馬祖列島に飛来して繁殖しており、ここは中国浙江省に次ぐ、世界で2番目に大きな繁殖地である。
繁殖地は馬祖列島アジサシ保護区の8つの無人島にある。東引双子礁、北竿三連嶼、中島、鉄尖島、白廟、進嶼、南竿劉泉礁、莒光蛇山であり、その多くはかつての軍管期に人の立ち入りが禁じられていた軍事禁区である。人を禁じたことが、鳥に居場所を与えたのだ。近年の脅威は、漁船が夜間に違法に保護区へ侵入すること(2020年、2021年と2年連続で集団営巣放棄が発生)、猛禽類ハヤブサの飛来、軍事演習による攪乱へと変わってきている。
大坵島も、もう一つの事例である。北竿の北方にある無人島で、1997年1月にニホンジカが放たれ(当初13頭)、1998年に国軍が全面撤退したのちは人間の干渉を受けずに自由に繁殖した。今日、大坵島にはおよそ200〜250頭のニホンジカが生息しており、「台湾版・奈良の鹿の島」と呼ばれている37。もともと軍事上の要地だった無人島が、台湾で最も特異なシカの生息地になったのである。
東莒島灯台(東犬灯台)は、さらに時代をさかのぼる物語である。清・同治11年(1872年7月12日に初点灯)に建てられた。アヘン戦争後、清朝とイギリスが『南京条約』を結んで沿海通商を開いたことを受け、福州の方角を識別するためイギリス側の要請で建設された。花崗岩造りで塔高約19.5メートル、建設には3年を要し、台湾・福建地域に現存する洋式灯台のうち、花崗岩材で建造された最初の灯台である38。地元の住民は灯台脇の白い外壁の建物を「白毛城」と呼び、現在は国定古跡に指定されている。灯台のそばには大砲中隊の軍事施設があり、現在は観光に開放されている。
亮島人8,000年、東莒灯台150年、戦地政務36年、藍眼涙観光ブーム15年。連江県の時間軸は、28.8平方キロメートルの上に幾重にも積み重なっている。この県の小ささと、そこに蓄積された歴史の密度は、まったく釣り合っていない。
南竿へ、福州16キロ先へ戻る
冒頭のあの光景に戻ろう。
南竿介寿村の山稜から北を見ると、天気の良い日には福州の街の輪郭が浮かぶ。南を見れば、台湾本島は200キロの先にある。山頂の「枕戈待旦」の石刻は今もそこにあり、蔣介石が1958年に揮毫して以来、一度も移されていない。だが今日ここに立って見えるのは、中国移動の通信塔であり、福州の高層ビルであり、平潭島の海上大橋であって、敵地ではない。冷戦は終わっていない。ただ存在のしかたを変えただけである。
2026年4月、連江県の戸籍人口は13,646人である39。戦地政務期の住民1万人よりやや多く、軍管最盛期の国軍5万人より、およそ5分の4少ない。若者の多くは台湾本島で学び、働き、戸籍だけを馬祖に置いて、選挙のたびに帰って投票する。桃園八徳の馬祖出身者の子孫は5万から6万人で、島の常住人口の4倍から5倍にのぼる。この県の「人」はずっと外にいて、島は旧正月と選挙のときに帰ってくる場所になっている。
馬祖語は使用する家庭が3割に満たないところまで失われ、桃園八徳では3世代で94%が失われた。藍眼涙は毎年20万人の観光客をもたらすが、地元の人びとは灯火管制を覚えている。芹壁は修復されてInstagramの人気スポットになったが、1970年代に離れた住民は戻ってきていない。2012年に可決されたカジノ住民投票は、2025年になっても進展がない。連江県のすべての物語は「軍人が去ったあと」の物語である。だが軍人が去ったあと、それは思い描かれていた未来にはならなかった。
次に馬祖へ行くときは、藍眼涙だけを見て帰らないでほしい。
亮島へ行って、あの7,900年前の人骨の展示を見てほしい(開放の窓口があれば)。東莒の老頭山へ行って、大埔石刻のあの41字を見てほしい。1617年の倭寇と1953年の鉄条網が、同じ一つの岩の上にある。南竿の馬港天后宮へ行って線香をあげてほしい。地下に媽祖の霊穴があると伝わる、あの廟である。北竿の芹壁へ行ってコーヒーを一杯飲み、この200年の石造家屋のなかに、かつて漁をした人、商店を営んだ人、去った人、戻らなかった人がいたことを覚えていてほしい。
そして、あの山稜に戻って北を見てほしい。
福州は16キロ先にある。台湾は200キロ先にある。この距離は変わらない。これこそが、冷戦が馬祖の人びとに残した最も物理的な遺産、すなわち地理である。連江県のすべては、この地理的な位置のなかに収まっている。
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- 金門縣 — 22県市シリーズのsibling、福建省のもう一つの離島県。同じく1956年の戦地政務、1992年の廃止、2001年の小三通を経験したが、金門語は閩南語同安腔で、厦門まで1.8キロ、古寧頭と八二三という二つの決定的な戦役を持つ点で、連江県とは同じ体制のもとの異なる血肉である
- 馬祖國際藝術島 — 連江県政府が主催する10年間のキュレーション計画で、戦地坑道、拠点、軍中茶室を展示会場に変えるものであり、本稿「観光化の前と後」の節で触れた島の転型を示す最も具体的な近年の事例である
画像出典
本稿ではWikimedia CommonsのCC BY-SAライセンス画像を5点使用している。
Hero画像(frontmatter)はSleepingstarによる「Matsu Montage」(CC BY-SA 3.0)で、馬祖列島の6つの風景を合成したものであり、芹壁、東引灯台、戦地坑道、藍眼涙などを含む。リンク先サーバーへの負荷を避けるため、すでにpublic/article-images/geography/にキャッシュ済みである。
inline画像4点。
- §南竿山頂から北を望むと:Beigan Township from Big Hill — Photo: Foxy1219, CC BY-SA 4.0, 2022-05-02。北竿を壁山から望んだもので、遠くに福建沿岸の輪郭が見える。
- §1617年の41字の石刻:Fuzheng Village, Dongju, Matsu, Taiwan — Photo: WT-shared Shoestring, CC BY-SA 4.0, 2011-11-24。東莒福正村の閩東集落。
- §観光化の前と後(藍眼涙の節):Blue Tears in the Matsu Islands — Photo: e_ella, CC BY-SA 2.0, 2014-05-05。藍眼涙の夜景。
最後はFoxy1219による「Qinbi Village 2024-09-11」(CC BY-SA 4.0)で、芹壁村の花崗岩家屋、閩東の「人字積み」工法である。
ライセンス条項:CC BY-SA 4.0 / CC BY-SA 3.0 / CC BY-SA 2.0。
参考文献
- 連江縣地理位置 — 連江縣政府 — 連江県防災救災情報網および県政府公式サイトが記載する、4郷5主要島+36付属島嶼、総面積28.8平方キロメートル、大陸最接近点まで9.25キロ、福州市街まで約50キロ、台北まで約200キロという公式地理データ(2026年の連江県戸政資料時点。29.54km²または29.6km²とする出典もあるが、差異は付属島嶼や礁岩を算入するかどうかによる。本稿はウィキペディアの主流数値28.8km²を採用する)。↩
- 連江縣歷史沿革 — 維基百科 — 1949年8月の共産党軍による大陸側連江県城の接収、1950年12月15日の馬祖行政公署成立、1953年8月の南竿での連江県政府再設置、1959年の鉄板村移転、1978年の現所在地・介寿村への移転という県政府の変遷史。↩
- 福建省政府 — 維基百科 — 1998年の福建省政府虚級化、2019年の正式な任務解除、業務が行政院金馬聯合服務中心に引き継がれた省政府の変遷史。↩
- 亮島人考古 — 公視新聞 — 2012年に亮島で完全な人骨が出土し、「亮島人1号」「亮島人2号」と命名されたこと、ミトコンドリアDNA比較でタイヤル族・アミ族と共通する母系血縁が示され、南島語族最初期の祖先の一人と推論されたことを伝える考古発見報道。↩
- 亮島島尾考古遺址列國定古蹟 — 文化部 — 2023年に文化部が亮島島尾考古遺跡を台湾で11番目の国定考古遺跡に指定したこと、炭素14年代測定で今から7,000〜8,300年前という結果が出ていること、現在台湾域内で発見されている最古の新石器時代遺跡であることを示す公式発表。↩
- 馬祖列島史前史 — 連江縣政府 — 宋代梁克家『三山志』の竿塘に関する記載、南竿鉄板村大清宮石碑の「中統交鈔貳拾貫」という元代貨幣の記録から、元代の南竿にすでに集落があったことを示す県政府の文化資料。↩
- 莒光鄉行政沿革 — 莒光鄉公所 — 東莒・西莒はもともと長楽県に、東引・西引はもともと羅源県に属し、閩東各県の漁民が出身地ごとに異なる島に住み着いたことを示す莒光郷の行政沿革。↩
- 大埔石刻歷史背景 — 連江縣文化處 — 1617年(明・万暦45年)5月、沈有容が閩海を守備し、東沙(現在の東莒島)で倭寇と戦って69名を生け捕りにし一兵も失わなかったこと、1630年(明・崇禎3年)に工部侍郎の董応挙が石を刻んで記念したことを記す県定古跡資料。↩
- 大埔石刻碑文全文 — 國家文化資產網 — 大埔石刻碑文41字のverbatim記録、「萬曆彊梧大荒落地臘後挾日宣州沈君有容獲生倭六十九名於東沙之山不傷一卒閩人董應舉題此」。馬祖地域に現存する最古かつ最大の摩崖刻石。↩
- 大埔石刻保存史 — 維基百科 — 1953年に国軍が東莒に進駐して防御工事を築いた際に大埔石刻が発見され、鉄条網で囲って保護されたこと、1988年11月11日に連江県県定古跡として公告されたことを示す保存の沿革。↩
- 沈有容諭退紅毛番韋麻郎等碑 — 國家文化資產網 — 沈有容が1604年に澎湖でオランダ東インド会社司令官・韋麻郎(ウェイブラント・ファン・ワルウェイク)を説得し退去させたこと、現存地が澎湖天后宮であること、2022年に国宝級文物に指定されたことを記す、同一将領による二つの事績の記録。↩
- 金馬戰地政務時期 — 維基百科 — 1956年7月の馬祖戦地政務委員会成立、1991年5月1日の動員戡乱時期臨時条款廃止、1992年11月7日の金門・馬祖戦地政務正式終結(東引郷公所公式サイトの日付による。11月5日とする出典もあるが、本稿は11月7日を採用する)、1994年5月13日の台澎金馬間出入境許可廃止までの、完全な戦地政務の時系列。↩2
- 宵禁時間,軍令如山 — 國家文化記憶庫 — 文化部国家文化記憶庫の項目がverbatimで記録する馬祖戦地政務期の宵禁規定。夜9時以降の宵禁、軍民とも外出には合言葉を知らなければならず知らなければ捕らえられ軽ければ拘禁重ければ処罰されたこと、通行証を申請するか宵禁の合言葉を告げなければ通行できなかったこと、衛兵が異状を発見し合言葉を叫んで応答がなければ「敵とみなし、ためらうことなく発砲する」という軍管の実態。↩2
- 馬祖防衛指揮部歷史 — RFA 2023 — 自由アジア放送による2023年の馬祖深度報道のverbatim、「At its wartime peak, Matsu hosted around 50,000 troops, dwarfing the number of civilians.」全盛期の国軍5万人対住民1万人、軍民比5対1という軍管史。↩
- 金馬戰地政務生活管制 — Taipei Times 2007 — ラジオ・テレビの使用には申請が必要だったこと、冷蔵庫・洗濯機・電気釜・エアコンなど高消費電力の家電が禁止されたこと、建物は二階建てを超えてはならなかったこと、カメラの自由使用が禁止されたこと、タイヤ・浮き輪・バスケットボールなどの「浮具」の持ち込みが禁止されたこと、爆竹・檳榔・鳩の飼育・凧揚げが禁止されたこと、金馬地区独自の軍票が発行されていたことなど、統制の詳細を記録した英語資料。↩
- 遺落在馬祖列島的戰地標語 — 攀講馬祖 — 地元メディア「攀講馬祖」が、南竿介寿公園の「枕戈待旦」(蔣介石が1958年に題字)、西莒埠頭の「毋忘在莒」、村内に残る「確保馬祖」「效忠領袖」「光復大陸國土」「解救大陸同胞」などの戦地期スローガンを考証した記事。↩2
- 馬祖人 30 年前登台先辦護照 — 城市學 2023 — 城市學(遠見雑誌系列)による、現職連江県長・王忠銘へのインタビュー記事。1992年の戦地政務廃止以前、馬祖の人びとは台湾との往来のたびに内政部境管局に入出境許可証を申請する必要があり「パスポートのようなもの」だったこと、桃園八徳の馬祖郷親の子孫5〜6万人が島の人口の4〜5倍にのぼること、桃園八徳における馬祖語の三世代での喪失率94%が「重大な危険」の等級にあることを伝える深度報道。↩23
- 如果台灣不要我們 — 鳴人堂 — 鳴人堂による馬祖の若者のアイデンティティの葛藤に関する報道。verbatim引用「如果台灣不要我們,我們又不想當中國人怎麼辦呢?」は、福建省の管轄下にありながら中華民国の領土でもある連江県の二重の身分的緊張を反映している。↩
- 2012 年連江縣博弈公民投票 — 維基百科 — 2012年7月7日の連江県カジノ住民投票の完全なデータ。登録有権者7,762人、投票率40.76%、投票者3,164人、賛成1,795票(57.24%)、反対1,341票(42.76%)、有効票3,136票という、台湾史上初めて可決された地方性住民投票の選務資料。↩
- 台灣博弈公投比較 — 中央社 — 中央社がまとめた、澎湖県2009年(賛成43.56%、反対56.44%)と2016年(反対60.1%)の2度にわたるカジノ住民投票の否決、金門県2023年のカジノ住民投票の高得票による否決、全台湾で連江県(馬祖)のみが可決したという、三県のカジノ住民投票の比較資料。↩
- 博弈專法卡關 — 立法院議事資料 — 2013年12月に行政院が『観光賭博場管理条例草案』を審査したが各方面の立場の相違で行き詰まり採決されないまま散会したこと、2015年に台湾懐徳開発公司が「カジノ特別法未成立」を理由に馬祖でのカジノ開発から静かに撤退したこと、2026年になってもなお未成立であることを記録する立法の停滞記録。↩
- 連江縣府放下博弈靠自己發展觀光 — 中央社 2017 — 連江県政府秘書長の張龍徳が2017年に中央社の取材に対し「馬祖近年來不再、也不必依靠博弈大餅,而是靠自己發展觀光」とverbatimで述べた、政策姿勢の転換。↩
- 馬祖話(閩東語)— 維基百科 — 馬祖語は閩東語(Eastern Min)侯官片方言に属し、閩南語(台湾語)とはまったく通じないこと、福州市の福州語とは「大同小異」だが訛りや語彙に差があること、住民の祖籍の多くが長楽県であるため「長楽語」または「福州語」とも自称することを示す言語分類資料。↩
- 國家語言發展法 — 文化部 — 2017年に中華民国政府が馬祖語を国家本土言語の一つとして正式に認定したこと、2019年に『国家語言発展法』が成立し馬祖語が法律による保護対象となったことを示す言語政策の沿革。↩
- Matsu Language: A Language Too Unique To Forget — Taiwan Insight — Taiwan Insightによる2022年の馬祖語存続危機についての深度報道。verbatimで「Less than 30% of Matsu households currently speak in their mother tongue. Some elders believe that this is a dying language.」+「The ban on speaking in dialects was painful and hastened the crisis of language extinction.」+「Others have been traumatised since they were discriminated against as foreigners or mainlanders because of their unique 'an' and 'ang' accents.」の三箇所を記録している。↩
- 馬祖話流失現況 — 維基百科 — verbatim、「近年來,隨著馬祖地區開放觀光,以及大量民眾移民臺灣島,有不少馬祖的在地居民開始會說閩南語臺灣話,作為母語的馬祖話面臨式微困境,年輕一輩不太說甚至不會說」という中国語の記録。↩
- 國軍進駐馬祖推廣國語 — 馬祖閩東語學習資源網 — 公式の言語保存資源サイトが記録する、1956年以降に国軍が進駐したのち国語普及と識字運動(民衆識字補習班)を強力に推し進めたこと、その動機が「軍民協同、聯動作戦」にあったこと、馬祖防衛指揮部が各村に「指導員」を配置し大人には国語を子供には読み書きを強制したこと、その結果として全県で国語が通用するようになった一方で馬祖語の地位が著しく弱まったという歴史。↩
- 媽祖傳說 — 南竿鄉公所 — 南竿郷公所公式サイトがverbatimで記録する媽祖伝説。「根據民間傳說,宋朝年間林默娘因投海營救父兄,不幸遇難,林默娘的遺體隨海漂流至南竿島附近,被漁民打撈上岸,漁民感佩其孝心,將她葬在海岸邊,之後湄州鄉親得知此事,跨海到南竿將媽祖遺骸迎回,只保留衣冠塚」という公式版。↩
- 馬祖境天后宮靈穴傳說 — Lord Cat 文史紀錄 — 馬祖境天后宮(馬港天后宮)正殿地下の霊穴伝説に関するverbatim記録。「民國五十二年,國軍工兵不敬任意將地磚舖蓋於墓石之上,次日竟發現墓石上地磚皆支離破碎,其餘地面完好如初」という現地の伝説版で、南竿郷公所の「衣冠塚」版と並記される。↩
- 藍眼淚的科學原理 — 台灣海洋大學 — 台湾海洋大学の藍眼涙研究計画公式サイト。学名Noctiluca scintillans(夜光虫、夜光藻)は渦鞭毛藻門の単細胞生物であり、刺激を受けると青い生物冷光を発しその発光は1回あたり約80ミリ秒続くこと、閩江の増水期に無機栄養塩が流入し珪藻が大量繁殖すること、水温が摂氏27度を下回ることが鍵であることを示す科学的機序。研究は『Frontiers in Marine Science』誌に発表された。↩
- 馬祖觀光遊客統計 — 馬祖國家風景區管理處 — 馬祖の年間観光客数の統計。2019年21万260人、2020年22万5,517人、2021年13万8,181人(コロナ禍)、2022年22万4,719人、2023年22万4,317人という公式統計で、藍眼涙が繁忙期最大の牽引力であることを示す。↩
- 芹壁村命名與閩東石屋 — 攀講馬祖 — 地元メディア「攀講馬祖」がverbatimで記録する、「烏龜的馬祖話唸作『芹囝』,依山面海而建的聚落與山壁鑲嵌,便稱『芹壁』」という命名の由来。↩
- 芹壁建築工法與歷史 — chadars.com — verbatim、「約 200 多年前,來自福建長樂縣陳氏家渡海遷居,在資源匱乏的海島上,以不加鑿切的花崗岩為建材,亂石砌成方正的獨棟雙層建築,以石塊壓住屋瓦,小而高的窗避風、避海盜」という閩東石造家屋の工法記録。↩
- 芹壁衰落與修復 — chadars.com — verbatim、「在漁業浩劫的 70 年代遷移臺灣謀生,留下逐漸荒涼破敗的聚落,2000 年有了聚落保存的觀念,一一修復」という、芹壁村の1970年代の漁業衰退、住民流出、民国70年代末には3〜4戸未満になったという歴史。↩2
- 芹壁聚落修復後重生 — chadars.com — verbatim、「在 200 年間,歷經新生、沒落又重生,商行成了遊客中心,宅屋成為咖啡店或民宿」という、民国89年(2000年)着工、民国90年(2001年)完工、公設民営で観光地へと転換した修復史。↩
- 黑嘴端鳳頭燕鷗保育 — 環境資訊中心 — 環境資訊中心によるクロハシアジサシ(神話の鳥)の深度報道。世界に約200羽しか残っていないこと、IUCNで極度危惧種(CR)に分類されていること、台湾の一級海洋保育類野生動物であること、馬祖列島アジサシ保護区の8つの無人島(東引双子礁/北竿三連嶼・中島・鉄尖島・白廟・進嶼/南竿劉泉礁/莒光蛇山)が世界2番目の繁殖地であること、近年は漁船の夜間違法侵入(2020〜2021年に2年連続で集団放棄巣が発生)が脅威となっていることを記録している。↩
- 大坵島梅花鹿生態 — 馬祖國家風景區 — 大坵島は北竿北方の無人島で、1997年1月にニホンジカが野に放たれ(当初13頭)、1998年に国軍が全面撤退した後は自由に繁殖し、現在は約200〜250頭が生息していること、生態歩道は約400〜500メートルで軍事施設とシカの群れが共存していることを示す島の生態資料。↩
- 東莒島燈塔(東犬燈塔)— 國家文化資產網 — 東莒島灯台は清・同治11年(1872年7月12日初点灯)に建てられ、アヘン戦争後の『南京条約』による沿海通商開放にともない福州の方位を識別するため英国側の要請で建設されたこと、花崗岩造りで塔高約19.5メートル、建設に3年を要したこと、「台湾・福建地域に現存する洋式灯台のうち花崗岩材で建造された最初の灯台」であること、現在は国定古跡に指定されていることを記す公式建築資料。↩
- 連江縣人口統計 — 連江縣戶政事務所 — 2026年4月時点の連江県戸籍人口が13,646人であること、戦地政務期の住民1万人よりやや多く軍管全盛期の国軍5万人より5分の4少ないことを示す最新の月報資料。桃園八徳の馬祖郷親の子孫5〜6万人が島の常住人口の4〜5倍にのぼるという「四郷五島加八徳」の自己認識も示している。↩