Lifestyle

台湾の医療と全民健康保険

99.9%のカバー率が生んだ、矛盾を抱えた奇跡。Numbeoで6年連続世界1位の医療制度は、なぜ医療現場の過酷な労働によって支えられているのでしょうか。

台湾の医療と全民健康保険

30秒でわかる概要:
1995年、台湾は全民健康保険を導入し、99.9%というほぼ完全なカバー率を実現しました。2024年には Numbeo の医療指数で6年連続の世界1位となり、外来受診の登録料は最安で50元からです。
しかし、その「世界一」の裏側では、看護師の離職率がこの10年で最も高い水準に達し、急性期医療を担う主要診療科の人材不足も深刻化しています。奇跡と過酷さは、台湾では切り離せないひとつの現実です。

1995年3月1日午前0時。台湾の2300万人は、同時に一枚の小さなカードを手にしました。

それが健保カードです。その瞬間から、「病院にかかること」は家計を圧迫する不安ではなく、社会が保障する権利へと変わりました。制度開始初日の加入率は92%、1年以内に96%、そして現在では99.9%。これは世界でもほとんど例を見ない医療保険カバー率です。

ただし、台湾の健保には、海外の研究者が目にすると必ず立ち止まる数字があります。医学中心(高度医療を担う大病院)の病室代が、1日598元。台北中心部のビジネスホテルより安いのです。


革命前夜:40%の人が保険を持たなかった時代

1995年以前、台湾の医療保険制度は、職業や身分によって分かれたバラバラの仕組みでした。公務員には公保、労働者には労保、農民には農保、軍人には軍保があります。

そのなかで最も厳しい立場に置かれていたのは、保険を持たない約40%の人びとでした。自営業者、失業者、専業主婦などは、病気になれば医療費を全額自分で負担するか、受診そのものをあきらめるしかなかったのです。

同じ病院でも、公保加入者は個室、労保加入者は4人部屋、無保険の人はそもそも十分な医療にたどり着けない。そんな不均衡が、日常の風景として存在していました。

1995年、政府は大きな決断を下します。細かく分かれていた制度をまとめ上げ、単一の「全民健康保険」へと再編したのです。設計の中心にあったのは、ただ一つの考え方でした。誰もが、病気になっても医療を受けられること。

保険料は個人・雇用主・政府の三者で分担し、健康な人と病気の人がリスクを分かち合う。これは単なる制度改善ではなく、社会のあり方そのものを変える改革でした。

キュレーター・ノート
台湾の健保は「単一保険者方式」を採用しています。中央健康保険署が台湾全体で唯一の保険者となり、保険料を集め、医療機関に給付を行います。この仕組みによって行政コストは2%未満に抑えられ、アメリカの約12%と比べてもはるかに低い水準です。オバマ政権が医療保険改革を進めていた時期には、政策担当者が台湾を視察したことでも知られています。


2004年:世界初のスマート健保カード

制度開始当初の健保カードは紙製でした。ところが2004年1月1日、台湾は32KBのチップを搭載した IC卡 へと切り替えます。これは、全国規模で導入された世界初のスマート健保カード制度でした。

医師はカードを読み取るだけで、患者の受診歴、処方歴、アレルギー情報を確認できます。さらに2013年にはクラウド薬歴システムへと発展し、過去3か月の投薬データに加え、X線画像やCT報告書まで、医療機関をまたいで参照できるようになりました。

この仕組みの効果は、数字にも表れています。 重複投薬は20%減少し、重複検査も15%減少。毎年およそ50億元の健保支出削減につながったとされています。

世界保健機関もこの制度を先進事例として紹介しました。アメリカ、日本、ヨーロッパ各国から視察団が訪れましたが、ここまで包括的な仕組みをそのまま再現できた国は、今のところありません。


世界一の数字、その裏側にある代償

2024年、Numbeo の「Health Care Index」は台湾を世界1位と評価しました。これで6年連続の首位、スコアは100点満点中86点です。同年の Bloomberg 医療効率指数でも、台湾は9位に入っています。

数字だけを見れば、まばゆいほどの成功です。けれど、同じ制度を別の角度から見れば、まったく違う景色が見えてきます。

指標 台湾 比較
医療支出の対GDP比 6.2% アメリカ 17.8%、ドイツ 10.7%
年間平均外来受診回数 1人あたり14回 イギリス 5回、アメリカ 4回
健保保険料率 5.17%(2025年)
入院病室代 1日598元 台北のビジネスホテルは約800〜1,200元

台湾では、人びとは1年間に平均14回も受診します。イギリスの約3倍、アメリカの3倍半です。医療が安く、アクセスしやすいことは確かに大きな利点です。ですがその一方で、「病院をはしごする」ような受診行動も生まれやすくなりました。

風邪をひいただけで三つの病院を回って比べてみる。慢性疾患の薬を重複して受け取り、家にため込んでしまう。医療が身近だからこそ起きる、別の種類のゆがみです。

元健保局総経理の張鴻仁は、かつてこう語っています。
「台湾の健保は長期にわたって投入が不足しており、その結果として医療従事者の過重労働と医療の質の低下を招いている。これは『世界最高』というより、『安く落札された制度』だ。」


「五大皆空」――奇跡を支える現場の限界

台湾には「五大皆空」という言い方があります。内科、外科、産婦人科、小児科、救急。この五つの、重症患者を最前線で受け止める診療科で、人が集まらず、定着もしない状況を指す言葉です。

理由は決して複雑ではありません。健保の支払い点数は長年低く抑えられてきました。外科手術の報酬は、自費診療の割合が高い美容医療などに比べると、どうしても見劣りします。そのうえ、高リスク診療科ほど医療紛争の負担も重い。若い医師が合理的に判断すれば、皮膚科、眼科、美容外科へ流れていくのも無理はありません。

看護師の状況は、さらに深刻です。立法委員の陳菁徽は2022年、立法院で次のように指摘しました。看護師の離職率は約12%に達し、この10年で最も高い水準となった。 大型の医学中心では病床閉鎖が相次ぎ、上位22の医学中心では約1割の病床が閉鎖、地域病院では2〜3割に達するところもあります。看護師1人が15〜20床を受け持つことも珍しくなく、就職後3年以内の離職率が50%を超える状況も続いています。

2024年末、報導者の調査報道チームは、こう見出しを打ちました。
「30年で最大の病院看護師流出――病棟閉鎖、手術制限、救急の混乱。国家の土台を揺るがす看護危機」

制度の逆説
台湾の健保の支払い構造では、医師は外来で1回に50〜80人を診なければ収入を維持しにくいとされています。患者1人に割ける時間は、平均して3〜5分ほど。しかも40人を超えると点数が割り引かれ、診れば診るほど単価が下がっていきます。もともとは医療費を抑えるための仕組みでしたが、結果として「3分診療」を常態化させる構造的圧力にもなっています。


財政という、静かに進む時限装置

台湾の健保はいま、一つの数式に向き合っています。答えはほぼ見えているのに、いつ破裂するのかだけが分からない。そんな種類の問題です。

65歳以上の人口は2026年に18.1%に達し、2030年には23.8%を超えると見込まれています。この層が消費する健保資源は全体の40%に上ります。一方で、保険料を支える若い世代は減り続けています。健保支出は毎年4〜5%ずつ増えているのに、保険料収入の伸びは2.5%未満にとどまっています。

2023年から進められている「部分負担改革」は、その最初の応急処置でした。紹介状なしで大病院を受診した場合の自己負担を引き上げ、薬剤の自己負担も見直し、患者を地域の診療所へ誘導しようとしたのです。

しかし、この改革には強い抵抗もあります。市民の側には「大病院のほうが安心だ」という感覚が根強くありますし、地域診療所の検査能力が医学中心に及ばないのも事実です。

さらに難しいのが、保険料率の問題です。現在の料率5.17%は長年にわたって据え置かれてきました。健保署は、2025年末時点でも安全準備金に約2か月分の余裕があるとみていますが、長期的な財政不足のリスクが消えたわけではありません。「いつ保険料を引き上げるのか」は、数年ごとに繰り返される政治的綱引きになっています。


30年後、私たちはどこに立っているのか

もう一度、1995年3月1日のあの小さなカードに立ち返ってみましょう。

あのカードは、それまで保険を持てなかった40%の人びとに、初めて「病院にかかる資格」を与えました。貧しい家庭が、「治療を受けるか、食事を取るか」という二者択一を迫られずに済む社会をつくりました。そしてこの小さな島は、世界でもっとも低いコスト水準のひとつで、世界でもっとも高い医療保険カバー率を支えてきたのです。

そのどれもが、まぎれもない事実です。

余韻
台湾の健保は、私たちにひとつのことを「当たり前」だと思わせました。
病気になっても、医療があまりにも高すぎるものではない、ということです。
けれど、その「高すぎなさ」は、誰かが引き受けています。離職率12%の看護師たちであり、3分で診察を終えなければならない医師たちであり、病床が閉鎖され、手術を待たされる患者たちです。
この制度は誇るに値します。ですが、誇りだけで支え続けられるものではありません。

それでもなお、これは世界でも数少ない、「健康」を市場の商品ではなく、公共財へと近づけようとした試みのひとつです。アメリカでは今なお3000万人が医療保険を持っていません。台湾の答えは決して完璧ではありませんが、少なくとも答えそのものは存在しています。

この制度の未来は、台湾社会がある事実を認められるかどうかにかかっています。世界一の健保を維持するには、それに見合う世界一級の投入が必要だということです。


参考資料

延伸閱讀

About this article This article was collaboratively written with AI assistance and community review.
全民健康保険 医療制度 ICカード 健保改革 医療の質 医療アクセス 社会福祉