私たちの貴重な森林は誰が持ち去ったのか。答えは、想像しているものと違うかもしれません。
清領後期:産業革命の導火線と樟脳専売
台湾林業の近代的な開発は、木材への渇望から始まったのではなく、「樟脳」の独占から始まりました。
世界規模のセルロイド産業と開山撫蕃
19世紀中葉、欧米は第二次産業革命の只中にあり、セルロイド(Celluloid)(初期のプラスチック原料)と無煙火薬の発明により、樟脳は戦略物資となりました。当時、台湾は世界の樟脳供給量の約70%を占めていました。
- 政策の論理:清朝は国庫充実のため「開山撫蕃」を推進しました。表向きは教化でしたが、実際には山間部に「脳灶(のうそう)」(樟脳蒸留施設)を設置することでした。
- 世界史的検証:これは当時の列強による世界的な特用作物の収奪、すなわち資源植民主義(Resource Colonialism)と合致するものでした。
- 深遠な影響:この時期の森林開発は「略奪的」なものであり、浅山部の樟木林がほぼ伐採尽くされました。同時に山間部の先住民の生態的境界線が破壊され、百年にわたる民族対招来しました。
日本統治時代:帝国の現代化と鋼鉄の文明
1895年、日本が台湾を領有すると、林業政策は「辺境からの略奪」から「官営のシステム化」へと転換しました。
帝国戦略と三大官営林場
明治維新後の日本の近代化建設には大量の高品質木材が必要であり、台湾の奥山に広がるヒノキ林は帝国にとって最良のインフラ材料でした。
- 技術的推論:日本政府が阿里山、太平山、八仙山の三大森林鉄道の建設に巨額の投資を厭わなかったのは、台湾を永久的な領土と見なし、「長期的経営」を追求したからです。
- 森林鉄道の技術詳細:アメリカ製の**シャイ式傘歯車機関車(Shay locomotive)**が導入されました。その垂直シリンダーと傘歯車伝動技術は、台湾の山岳地帯の急勾配と複雑な地形を克服するために採用されたものです。
- 世界史的観点:これは20世紀初頭の大日本帝国が欧米諸国を模範として「帝国林業」を確立しようとした野心的な試みを反映しています。台湾のヒノキは神社(明治神宮など)や軍艦の建造に用いられ、政権の正当性と力の象徴とされました。
戦後の転換:冷戦の孤島と「林業による財政運営」
1945年以降、政権が交代しました。国民政府が直面した情勢は日本統治時代とは全く異なり、森林の運命は劇的な転換を迎えました。
米援助の断絶と生存の切迫性
1950年代から1960年代にかけて、台湾は冷戦の最前線に押し出されました。1965年の米援助終了に伴い、政権は膨大な軍事費を自前で調達する必要性に迫られました。
- 政策の動機:「農林をもって工商業を育成する」という産業政策(姚鶴年、1993年)が推進され、森林は「緑のATM」と見なされました。この時期、森林資源はドル外貨獲得のための商品でした。
- 1956年には13の林区で開発が拡大され、「多く造林し、多く伐木し、多く国庫に納める」という三多林政が厳格に施行されました(焦國模、1993年)。
- 1958年には台湾林業経営方針が公布され、全省の天然林のうち研究・観察・景観目的で保留するものを除き、ヒノキは80年、その他の樹種は40年を清理期限として人工林へ段階的に改造するよう命じられました(姚鶴年、1993年)。
- 技術的転換:林道革命:利潤を最大化するため、政府は高価な鉄道を放棄し、破壊的な**「林道システム」**に転換しました。大型トラックが奥山に直接乗り入れ、伐採速度は驚異的でしたが、不適切な道路掘削は後世に深刻な土石流の危険を残しました。
史実資料の比較
- 資料の解析:姚鶴年(1993年)の統計によれば、日本統治時代の三大官営林場(阿里山、八仙山、太平山)は1912年から1945年にかけて、合計約18,432ヘクタールを伐採し、伐採材積は約663万立方メートルに達しました。ただし、この数字は官営林場のみを対象としており、同時期の民間伐木業者は含まれていないため、実際の総伐採量はこれより多いと考えられます。戦後1946年から1990年にかけては、伐採材積が4,456万7千立方メートル以上、伐採面積は34万4千ヘクタールを超え、日本統治時代の官営数字の約6.7倍に達しました(彭國棟、1989年;林務局、1991年;林國銓、1993年による引用)。
- 解釈の差異:伐採のピークであった1972年について、林務局誌(1997年)は180万立方メートルと記録していますが、焦國模(1993年)は200万立方メートル以上と推定しています。これは、大伐木時代の林業史がさらなる史料の公開と学術的な検証を待つことを示しています(李根政、2016年)。しかし、異なるデータソースはいずれも同じ物語を指し示しています。
- 時代的推論:これは政権が「大陸反攻」の思想の下、台湾を一時的な拠点と見なし、短期的な資源消耗戦略をとったことを反映しています。しかし国民政府の歴史観における「措置」は、より大規模で、より低コストで、より持続可能性を欠いた資源搾取を、「生存」と「発展」に関する民族的叙事詩へと転換させた点にあります。
形成された二元対立
過去数十年の教育と宣伝を通じて、国民政府は見事に対立する構図を確立しました。
- 日本統治時代=略奪:日本の開発を「植民地の資源を本国に捧げるための奪取」と定義し、阿里山の神木が明治神宮の建材として切り出されたことを強調し、被害者意識を強化しました。日本統治時代は森林鉄道に依存しており、その軌道は固定的で目立ちます。今日阿里山で見られる「神木」の切り株の多くは、日本統治時代の伐木後に残されたものです。これらの残された遺産は、当時の開発を人々に絶えず思い出させています。
- 戦後時代=建設:大伐木行為を「復興基地」「経済発展」「退役軍人(栄民)の安置」という民族的大義の下に包装しました。政府は林業開発と東西横貫公路(中横)の建設を密接に結びつけ、時代の英雄叙事を形成しました。戦後、アメリカ式の「林道システム」(Forest Road)が導入され、大型トラックが山間部に乗り入れました。林道は敷設が早く、コストが低く、伐採後は崩壊により消失したり閉鎖されたりすることが多々ありました。
誤解を招く点:これにより、大衆の林業経営の連続性に対する認識が薄れました。実際には、戦後初期の林務局は日本統治時代の官営林場制度と技術をほぼ完全に継承していましたが、実行の強度はそれをはるかに超えていました。
世紀の転換:「征服」から「和解」へ
1980年代以降、環境意識が世界的に覚醒し、台湾でも「棲蘭神木群の救済」などの市民運動が起こりました。
- 1991年の全面伐採禁止:これは台湾林業史の分水嶺です。政府は天然林の全面伐採禁止を正式に宣言し、森林経営の方針は「経済的搾取」から「国土保安」へと転換しました。
- 東アジア的背景の検証:これは、1990年代に東アジア諸国(中国、タイなど)が大規模な水害を経験した後に相次いで伐採禁止令を施行した傾向と一致します。
- 後世への影響:伐採禁止により、台湾の木材自給率は1%以下に低下し、産業は輸入に極度に依存するようになりました。このことが、現代において「私有林の利用」と「国産材の持続可能な開発」のバランスを再考する契機となっています。
総括:森林開発の時代的軌跡
全体の時間軸を通して、森林は三度の価値定義の転換を経験しました。
- 19世紀以前:森林は「荒野」であり、開墾の障害でした。
- 20世紀初頭から中葉:森林は「資産」であり、国力とドルを獲得するための手段でした。
- 21世紀:森林は「家園」であり、極端な気候に対するレジリエンスの緩衝材です。
この三百年にわたる林業政策は、本質的には人類が「自然の価値」を定義し続けてきた変遷そのものです。今日、私たちが阿里山に足を踏み入れるとき、見るべきは美しい景色だけでなく、年輪に刻まれた地政学的な葛藤と生存の苦闘の深い痕跡であるべきです。
参考文献
- 李根政、2016年、〈台湾大伐木時代、一体どれだけの木を切ったのか?〉、大元山翠峰湖ウェブサイトに収録。2016年7月20日。URL:http://www.taiwanland.tw/06Dah-yuan/discussion/word27.html
- 台湾省林務局、1997年、『台湾省林務局誌』。台北:台湾省林務局。
- 農傳媒、2019年、〈森林の身の上を聴く――台湾大伐木時代の美と哀愁を紐解く〉、https://www.agriharvest.tw/archives/8214/。
- 姚鶴年、1993年、〈日拠時期林業〉、9–30頁;〈光復初期林業〉、31–64頁、中華民国台湾森林志編撰委員會編『中華民国台湾森林志』に収録。台北:中華林学会。
- 焦國模、1993年、〈林業政策〉、175–193頁、『中華民国台湾森林志』に収録。台北:中華林学会。
- 林國銓、1993年、〈森林資源の過去と現状〉、1–29頁、夏禹九・王立志・金恆鑣編『森林資源の永續經營』に収録。台北:台湾省林業試験所。
- 彭國棟、1989年、〈台湾森林経営が直面する生態問題〉、「生態問題下の森林経営」に発表。台北:林試所。
- 林務局、1991年、『台湾省林業統計』。台北:林務局。